日吉寄宿舎の歴史

日吉寄宿舎の創設まで

寄宿舎の歴史とは慶應義塾の歴史である。なぜなら寄宿舎の存在は、福沢諭吉先生の教育理念を実現するためには必要不可欠なものであったからである。つまり寄宿舎の歴史を語ることは、140年に及ぶ義塾の歴史にある角度から光を当てることになるはずだ。

義塾創立当時、塾生たちは福沢先生と鉄砲州にあった塾舎において寝食を共にしていた。この鉄砲州の塾舎から義塾の寄宿舎の歴史は始まるのである。しかしこの塾舎も、地方から集まった俊才たちを収容出来ず、規模の大きい寄宿舎を必要とせざるを得なくなった。そこで慶應4年に芝新銀座に移ることになったが、この寄宿舎は独立自尊の考えを基に、自治生活を送っていたのである。例えば食堂規則を有し、また自治会規則を有していた。日本の黎明、明治維新を迎えると、塾生の数は俄然増え、新銀座の宿舎では到底収容不可能となり、三田の旧島原屋敷に移ることになった。時に明治3年11月のことである。旧島原屋敷の長局を寄宿舎としたが、塾生の数は増える一方で、ついに塾生が300人に達するに至り、ここでも収容がしきれなくなった。そこで江川長屋を借りて増強することとなった。昔の屋敷を改造した寄宿舎といえども、日本最高水準の近代的建物であったらしく、見物にくる人も多く、また新橋停車場などの模範建 築にもなったりした。

明治32年に旧幼稚舎、その他の2,3の宅を払って新宿舎を建設した。木造2階建ての3棟、総床面積1400坪。 豪華な設備を持つ定員4名の部屋が100室で収容人員は400人。浴室はもちろんのこと、理髪室や娯楽室も完備されていた。しかしこの寄宿舎も長続きせず、大正6年には医学部設置計画のために移転せざるを得なくなった。同年9月に広尾の福沢先生の別宅に新寄宿舎を建設した。木造2階建ての6寮であり、近代設備の整ったものであった。階下は自習室であり、階上は寝室にあたった。全収容人員は240人で、寮舎以外にも大食堂を設け、倶楽部室、浴場、事務室、図書、理髪部などがそなえつけられていた。当時としては類のない日本で最高の寄宿舎であった。この寄宿舎は、昭和11年3月まで自治運営のもと、塾の中心として学生活動の温床の役 割を果たしてゆくのである。

日吉寄宿舎の誕生

昭和11年三田山上の充実拡張のため、幼稚舎の新校舎を渋谷天現寺橋畔の寄宿舎敷地に移すことになり、日吉予科校舎の完成と相俟って、日吉キャンパス内に寄宿舎を新たに建設することが決定された。

槇知雄防大教授の構想を基に谷口芳郎東工大助教授の設計により構築された我らが日吉寄宿舎は、北寮・中寮・南寮の3棟と炊事・室浴室・娯楽室を含む別棟からなり、全寮の暖房は最新式のパネル・ヒーティング(床下温水暖房)を採用し、便所は水洗式の装置で各階に備えられていた。初代舎監に園乾治先生を迎え、昭和12年9月10日に開舎式を行いその産声を上げた。同年10月3日には披露式も催されている。

各寮の定員は40名ずつとされ、各寮ごとに舎監・副舎監が一人ずつで、舎監は週に2泊副舎監は5泊することになっていた。またこの中から3寮の代表である主任舎監が一名選出された。6名のうち必ず1名医者がいたというのも特徴的だった。

昭和12年完成当時上空から

生活は規則正しいもので、7時に起床、7時半には全員がそろって朝食をしたという。勤勉な者がほとんどで、授業には毎回出席するのが当たり前だった。昼食は寮で済ませ、再び授業に出た。風呂は15時頃から入れるようになっていたので、当時寄宿舎の浴場の使用が許可されていた体育会の部員(サッカー部・ラグビー部・野球部)が来る前に、入浴を済ませようとするものが多かったらしい。浴場にアイスクリーム屋が来ていて、月末精算方式で食べることが出来たということと、すばらしい展望風呂(通称ローマ風呂)であり、綱島まで広がる一面の桃畑が窓から見えたということだけを付け加えておこう。夕食は決められた時間内に済ませればよく、各寮ごとにいた炊事婦が世話をしてくれたが、おかずは赤屋根食堂から運ばれて来るもので、当時としてはかなり立派な食事だった。門限は23時で、各寮ごとの塾僕が戸締りをした。なお無断外泊に関しては厳しかった。

寮内では様々な行事が行われていた。週1回の割合で各寮ごとに研究会や講演会が盛んであり、終了後は必ず熱心な討論が行われた。そんな中、南寮において南寮舎生事件が起きた。

「最近南寮において寄宿舎の自治に誤解をなす者あり、11月30日4名の者に退舎を命じたが、残りの舎生36名はこれに同情して一斉に退舎の意思を表明し、12月1日、寮を引き払った。これに就き12月4日保証人会を開催し事情を説明し、舎生の退舎に同意せざる保証人に対しては学生帯同の上、個別に面接し、保証人より改めてその意思を確かめたる後、本人よりも今回の自治の行為に就いて十分なる反省を加え、陳謝し、今後再びかかる挙に出ざる旨の誓約をしたので復舎を許可し、12月5日夜36名全部復舎を了した。その間何等条件又は希望等の申出はなかった。」(昭和13年1月三田評論より)

以上のような事件も、自由を愛する舎生の気風の表れのひとつとするのならば、戦争へ向かっての暗い時代にあって も、この寄宿舎では慶應義塾の塾風であるLiberalな雰囲気を愛し、独立自尊の精神に基づいた生活を送っていたことがわかる。

昭和18年学徒出陣

このころ渋谷は開けておらず、舎生は横浜や銀座によく遊びにいった。映画は横浜がほとんどで、慶早戦の後は銀座で ビールを飲み、日比谷で皇居の堀に飛び込むこともあった。この頃まだ日吉も田に囲まれた長閑な街で、駅を降りて右手に丸善があり、他はビリヤード屋やソバ屋などが点在するだけで あった。
昭和20年8月に日本の敗戦が決まると、同月下旬に、帝国海軍連合艦隊総司令部の上級将校の宿舎だった寄宿舎の建物は、他の日吉キャンパスと同様にアメリカ進駐軍により占領されることになる。上級将校たちの宿舎として用いられ、旧浴場はその浴槽を埋められ、バーやダンスフロアーとして使われるようになり、この改装により、日吉寄宿舎自慢の“ローマ風呂”の面影はほとんど失ってしまった。この後ローマ風呂が風呂として使われることはなく、現在に至って は、“廃墟”の印象をまぬがれ得ない。

戦後から日吉寄宿舎再開まで

昭和19年に戦況悪化に伴い、日吉寄宿舎が閉鎖されたことにより慶應義塾の寄宿舎の歴史は一時中断することになる。しかし終戦を迎えると、寄宿舎は時を置かず復活する。やはり義塾にとって寄宿舎は必要不可欠であるという考えが関係者に強かったこともあるが、やはり最も大きな理由に、戦争直後の想像を 絶する住宅難ということが挙げられるであろう。

昭和25年、日吉寄宿舎の敷地、及び建物が駐留軍により解放されると、義塾は中寮を寄宿舎として復活させた。すでに床下暖房は使えず、暖房も風呂もないという状態だった。規則というものはなく、寮生大会だけは全員参加で行われた。当時はまだ個人部屋で女性の来訪もあった。なお北寮は大学院研 究室、南寮は斯道文庫として使われるようになった。

また昭和26年には教務課近くの4棟のカマボコ兵舎も寄宿舎として開放された。こちらには、新入生80名を1部屋2名ずつ収容した。入舎にあたっては、戦後という時代背景を慮って、経済状態を重視したものだったが、希望者は多く、倍率は10倍近いこともあった。この時2名の女性の入舎希望があり、面接の結果入舎することになったが、学校側からは一切干渉されなかった。「洗濯物は室内に干すこと」という条件がついた以外は全てほかの舎生と同じ扱いだった。廊下を歩く舎生が妙にきちんとした格好になったとか、寮生大会の出席者が急増した。

昭和28年に義塾はキャンパス内に新寄宿舎設立を計画したが、舎生はこれを拒絶し、居座り運動を展開する。結局学校側の提出した三人部屋の妥協案に同意して現在あるような形に落ち着いた。舎生が遊びに行く時は、相変わらず銀座が多かったが、渋谷や自由が丘にも出かけるようになった。

昭和30年代の日吉寄宿舎

昭和30年ごろになると舎規則を作ろうという気運が盛り上がってきた。そして寄宿舎初の自治委員会の手による舎規則は昭和32年10月1日より施行された。この頃すでに委員会は半年交代で行われていた。また学校側から寮費値上げの要請があり、それを認める条件として風呂場建築を要求、南寮と中寮のあいだの防空壕跡において実現された。洗濯物はここで洗えるようになった。またこの頃から行事が盛んに行われるようになってきた。勉強に関しては個人によってまちまちではあったが、舎監の先生を囲んでの勉強会も盛んだった。留年者は慣例として退寮することになっていた。門限はなく、寮全体の雰囲気はノンビリ した和やかなものだった。

昭和30年代~昭和40年代後半にかけては,2度の安保闘争を含め学生達にとって正に激動の時代であった。日吉寄宿舎は組織自体としては決して一つの思想に傾くことはなく、あくまで個人が自由に考え、生活できる本来あるべき学寮の姿勢を崩さなかったことは「独立自尊」の義塾における根本精神の実践の場としての寄宿舎の役割を各自が充分に理解していたこととして誇るに値することである。昭和30年代も半ばになると戦後の混乱も完全に終わり、寄宿舎も安定した時代に入った。住宅事情も良くなったと見えて、十倍近かった入舎希望者も、募集人員二十名程度のところ六十名ぐらいになった。

この頃は郵便物は寄宿舎まで配達されず、委員が局まで取りにいっていた。昭和36年9月には「舎生大会規則」が完成されたが、30年代終わりになると舎生大会における舎生の出席率は大変悪くなった。この頃寮で話し合われた問題としては”寄宿舎の2年制化”問題や”都寮連の参加”問題などで あった。

昭和40年代の日吉寄宿舎

昭和40年代には、社会的に学生運動が激化し、その運動の波は慶應義塾にも押し寄せる。40、47年におこる2度の学費改正反対紛争、43年の米軍研究資金導入反対紛争、翌44年の大学立法紛争が次々と起こった。このような動きの中で、寄宿舎は決してその激流に流されることなく独自の立場を保ち続けていた。当時の寮生の大半は、これらの学生運動に対して比較的無関心であり、冷淡ですらあったようだ。こうした態度がある意味では寮そのものに対する無関心ひいては寮のアパート化の問題に結びつき、全体的に沈滞したムードをもたらした。こうした問題は委員会にとって非常に大きな問題だった。40年代後半には基本的規則が守られなかったり、異学年間の会話が少なく夜間の部屋間移動に対して時間制限を設けようという動きすらあった。 

42年12月15日午後6時30分ごろ2階216号室より出火し、消防車11台が出動、同7時ごろに鎮火した。出火原因はストーブに点火したマッチをバケツの中に投げ入れたつもりが下にあった布に落ちたことであった。被害状況は216号室が全焼214、218の両隣の部屋と、前廊下の壁が黒く汚れ、復旧するのに数年かかった様である。さらに、この事件からちょうど1年経った43年12月17日にも同じようなボヤ騒ぎが起こる。こちらは3階318号室より出火するも、その部屋の一部を焼失するにとどまる。ドライヤーの熱により、机の書類に引火したのが原因。2件とも出火当事者は人情論も飛び交う中、出火者退寮の不文律によって舎生大会の決議により退寮した。この2度の出火事件の反省を踏まえ、44年、45年には自衛消防隊が編成される。これは舎監を代表とし、委員会及び室長が中心となった組織であった。自衛消防隊という名称の組織そのものは、2、3年で消滅した様であるが、出火に対する寮生 の認識は深まった。

昭和50年代の日吉寄宿舎

1970年代に入り、長く続いた高度成長は内外情勢の変化によって、行き詰まりを示す様になる。また昭和46年以降、70年安保闘争の激動の時期を失意の内に終えた学生達の多くが、無気力になっていたがこの日吉寄宿舎の学生達も例外ではなく、40年代はじめの頃より続いていた沈滞ムードと相俟って白けた雰囲気に支配されがちだった。しかしこのような状況を打破したいという願いは、一部の寮生の間で脈々と生き続けていた。40年代の後半になるとその意識が徐々に寮生の間に広がる。寮生活を活性化させる方向へと進むようになる。このことは40年代後半のある年の入舎選考の基準が「とにかく何かをやろうとする新入生を合格させよう」という姿勢を前面に打ち出したことからも窺がえる。昭和40年代末には、このような新入舎生選考によるものか、寄宿舎内の雰囲気は活気を取り戻すようになる。寮の雰囲気を盛り上げようとする気運のもう一つの現れは、各学年の立場を明確にし、つまり学年制を徹底化することにより、寮内の団結を強めようとするものであった。かなり前からあった上級生と下級生との間の礼儀を徹底させようという雰囲気はさらに強められることになる。

行事としては、40年代末から50年初めの盛り上がりを最後に、寮祭が行われなくなった。他には寮対抗慶早戦、昭和52年にカクテルパーティー、54年に出陣式(4年生が就職試験を受ける日に全員で景気をつけて送り出す)、57年に慶早戦ハイクなどが始まった。

現代の日吉寄宿舎

これまで述べてきたような沿革を背景として、現代の寄宿舎があるわけだが、ここでは現代の寄宿舎がどんなものであるかを浮き彫りにしてみたい。

まず、行事について4月から順におっていくと、4月1日、入舎式が行われる。これは昭和62年から始められたものであり、歴史は浅いものの、今後も行われていくであろう行事である。4月初めの数日間には2年生会、3年生会、4年生会が行われる。これは各学年が新入生に対し顔合わせの目的もかねて手荒い歓迎をするものである。4月中旬の舎生大会において部屋決めが行われる。それ以後の1年間生活する部屋はすべて異なった学年の3人で構成され、全くのくじ引きで決定される。舎生の様々な思惑が絡み合い、独特の雰囲気を醸し出す。新入生の歓迎旅行は、4月下旬の土日を利用した1泊2日で行われる。5月には新入生歓迎ダンスパーティーが2年生会主催で行われる。クラブを借り切って行われるこのダンパはきらびやかな雰囲気の中で新入生を社交界へとデビューさせるのである。また、東京六大学野球慶早戦に伴い慶早ハイクが行われる。これは慶早戦が行われる神宮球場まで日吉を真夜中に出発して歩いて観戦しにいこうというものであるが、大抵の人は疲れて帰ってしまう。10月には寮和会、11月には三田祭参加、12月にはカクテルパーティーという3年生会主催のダンスパーティーがある。1月には地元に帰ることが出来ない舎生のために成人式が行われる。2月の後期テストが終了してすぐに追い出しコンパが行われる。これはその名の通り卒業生を送り出すコンパである。昼間にスポーツ大会を行い、その後の宴会では4年生の挨拶が行われる。こう して舎生の1年は過ぎていく。

さてこれまで様々な視点から寄宿舎を見てきたわけだが、現在の舎生の気風といったものはどうであろうか。これを正確に把握し判断をすることは大変困難であり、どんな立場から見ても何らかの価値判断に偏ることは避けられない。しかし、明らかに言えることは現在の舎生が50年代から脈々と受け継がれたものを静かに見つめ直し、そして自分たちは何を伝えるべきであるかを模索している状態だということである。これは一見すると寄宿舎というものが、その個性を弱め、全体としてまとまりにかけるように見えるかもしれない。しかし60年という日吉寄宿舎の長い歴史から見れば、それも一つの小さな変化にすぎないであろう。戦前の整備された寄宿舎で暮した人も、戦後のあれた寄宿舎で暮した人も、人生の最も輝かしい季節をこの日吉の丘で過ごしたことには変わりない。確かに物質的に見れば全く異なった場所であり、生活であるかもしれない。しかし独立自尊の精神を尊び、何よりも自由を愛する学生気質は60年前の舎生も、そして現在の舎生も変わらないだろう。自らの信ずる心を厳然と伝えていこうとする日吉寄宿舎生精神は、新世紀への旅立ちへと力強く踏み出していくので ある。

<慶應義塾大学寮和会 「日吉寮開設50周年記念誌」より抜粋一部改編>